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小田部 羊一(こたべ よういち、1936年9月15日- )は、日本のアニメーター。任天堂在籍時に、マリオシリーズを含む同社のキャラクターのデザインやアートワークを監修した。
来歴[]
日本統治時代の台湾・台北出身。
油彩を嗜んでいた父を見て絵に興味を持ち、母が見せたパラパラマンガで「動く絵」に興味を持つようになる。東京芸術大学に合格後、東映動画に二次募集で合格、アニメーターとしての道を歩む[1]。
『太陽の王子 ホルスの大冒険』『長靴をはいた猫』などの作品で原画や作画監督として参加したのち、高畑勲、宮崎駿らと共にAプロダクションへ移籍。その後も何度か所属を変え、1974年のアニメ『アルプスの少女ハイジ』で、日本で初めての「キャラクターデザイン」の役職を名乗った。
東映動画時代の同期であった任天堂の池田宏の誘いを受け、1985年に任天堂へ入社。当初はゲームへの認識が『スペースインベーダー』であったため「なぜゲームにアニメーションがいるのか」と考えたが、『スーパーマリオブラザーズ』で画面の中を動き回るマリオを見てその認識が覆される。
任天堂での初仕事は『夢工場ドキドキパニック』の魔法のじゅうたんを本物のじゅうたんのように滑らかに動かすアニメーションの作成であった[1]。
ファミコンのドット絵と宮本茂が手掛けた数少ないイラストしか存在しなかったマリオ達のデザインをリニューアルして公式アートワークとして再描画を行い、主要キャラクターの現在のデザインを作り上げた張本人。
NINTENDO64の登場に向け、3DCGで描かれたマリオのアニメーションの監修を行うなど、そのキャリアと観察眼を活かした監修業務を主な仕事としていた。『ポケットモンスター』が大ヒットをすると、以降はこちらの監修が主となる。
2007年に任天堂を退社、再びフリーとなり、現在まで活躍を行っている。
教育者としての一面も持ち、後進の育成にも励む。
マリオ関連のエピソード[]
- マリオキャラクターのリデザインにおいては、宮本をはじめとする任天堂のデザイナーからキャラクターの役割、性格などを聞き出し、双方が納得する形の物を作っていった[2]。
- その際に小田部が尋ねた「マリオはどんなことをする人なのか」という問いに対する宮本の「何でもありだが、ただ一つ「人殺しだけはしない」」という一言の返答が小田部の中の疑問を一気に解消させ[2]、マリオというキャラクターの人物像を形作った。
- ゲーム映像が2Dから3Dに進化していく時代、3Dでマリオを描写すると腕や足が胴体にめり込んでしまい動きに自由度が減ってしまうという問題に直面。関節をつけてアニメーションをさせても違和のないようなデザインにすべく、小田部が周囲の意見を取り入れながら三面図を作成した。[2]
- その際、いい機会だからと3Dモデリングやアニメーションの技術を習おうと尋ねたところ、宮本に「3Dの限界がわかってしまうと、キャラクターチェックで自由な意見が言いにくくなる」と咎められ、断念した[2]。
- 特に熱中した作品は『ドクターマリオ』と『ドンキーコング』。『ドンキーコング』は重量感や引力の度合いを気に入っており、デバッグとして参加した際にゲームオーバーになっても直前からやり直せる開発用ROMを受け取っていたこともあり何とか最終クリアまでたどり着いたが、そのことを聞いたスタッフが「年寄りがクリアできてしまうようでは」と躍起になったことが第二作目以降の難易度増加につながったと語っている[2][3]。
携わったマリオ関連作品[]
- ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー - キャラクター監修(劇中はスペシャルサンクス表記)[4]